[巻頭言]さくらの思い出 東京芸術大学美術学部教授 日本画家 中島 千波
私が両親・姉兄と横浜に戻ったのは三歳になったばかりのころだったと聞いている。私の記憶に残る一九五〇年ころは、いまだ敗戦の影と進駐軍のカマボコ兵舎とアメリカ兵の住む駐留軍家族の明るい家であった。塀越しの庭は緑の芝に囲まれ、日本人との生活の格差を感じていたころであった。私の住んでいた横浜市南区大岡町は、京浜急行弘明寺駅から徒歩十五分、市電の弘明寺停留所から十分という距離であった。家のそばには大岡川が流れ、小さな木造の橋が架かっていた。両岸の堤は桜並木となって、満開時などは桜見物や酒盛りなどをするような場所であった。土手の斜面は細竹ややぶが生い茂る所が所々あり、チャンバラごっこやインデアンごっこの隠れ家作りに格好の場所であった。川向こうには畑や田んぼが一面に広がり、本当にのどかな地域であった。それも十年もたつと新道ができ幹線道路となり新興住宅地と化し、トンボやカエル、ドジョウ、ザリガニがいなくなってしまった。そして、桜並木も歯抜けとなり老い朽ちてしまい、風情がなくなってしまった。
一九六九年、芸大大学院生になった年に、横浜市緑区恩田町に家族四人が移住することになった。そこは田園風景そのままの土地で、再び田舎の空気とオゾンを胸いっぱい吸うことができるのである。家の後ろは、村の神社の鎮守の森、多摩丘陵の最端の地で、武蔵野が残る所であった。境内には大きなソメイヨシノ桜と山桜があり、四月には満開の花が楽しめ、桜のスケッチもできる絶好の場であった。私が本格的に桜の細密描写をした最初ではないだろうか。家の居間からは、丹沢山塊と大山の向こうに富士山がチョコンと顔を出していた。そして、夕焼け空の美しい景色であった。
私が桜の老樹古木の取材をするのは、その十年後の一九八二~八三年春からになる。岐阜県根尾谷の淡墨桜が最初ではなかろうか。根元の幹囲は十メートル以上あるだろう、一般的な桜の樹皮には到底見えず、こぶがごつごつとでき象の皮のようであり一種霊感を感じさせる雄大さは、私にとって初めての感動であった。それから十年ほどは毎年通い描き続けたのである。また、岐阜県には、飛騨高山に臥龍桜、御母衣ダムの荘川桜などがある。東北地方には山形県に伊佐沢の久保桜、盛岡の石割桜、福島県三春の瀧桜、長野県では、素桜神社の神代桜、原の閑貞桜、山梨県小淵沢の神田桜、武川町の山高神代桜、京都では常照皇寺の御車返しの桜、九重桜、天龍寺の枝重桜、島根県三隅大平桜と枚挙にいとまがないほど全国にわたって数たくさんあり、私がまだ取材しそこねた場所があるのではないだろうか。名木古木の前に腰を下ろし、桜の花びらが春風に舞い、花吹雪の中でスケッチができる喜びは絵描きにとって最高に心地よい時間と言える。今年も大いに桜の開花に合わせ桜行脚に出掛けようと思っている。
掲載内容
巻頭言
さくらの思い出 P1 | 中島 千波 |
特集 日本のこころ 桜文化
特集1 桜、その日本のこころ P2 | 小川 和佑 |
特集2 さくらサミットと桜文化の醸成 P6 | 福井 良盟 |
特集3 日本列島の春を彩る多様な桜 P10 | 佐野 藤右衛門 |
特集4 弘前城の桜 ―その歴史・現況と栽培管理の挑戦 P14 |
小林 勝 |
特集5 荘川桜物語を今に引き継ぐ P18 | 大井 哲郎 |
◆連載
連載I あの町この町 第32回 鉄が湯になる ―富山県高岡市 P22 |
池内 紀 |
連載II 風土燦々(5) いだごろ踊りの山里(後編) ―宮崎県美郷町南郷区 P28 |
飯田辰彦 |
連載III ホスピタリティの手触り 53 ニセコで考えたこと P30 |
山口由美 |
新着図書紹介 P32 |