概要
<初めての海外旅行が「安心院」?!>
大分県宇佐市安心院町。葡萄とスッポンの産地として知られる同町の温泉ホテルの前には、毎週のように多くの韓国人を乗せた大型観光バスが停まります。「韓国人旅行者に人気の温泉」と思いきや、一行がバスを降りて向かうのはホテルの反対側にある建物。実は、彼らのお目当ては温泉ではなく、この中で行われる“とある”研修にあるのです。
「日本の方は意外と思われるかもしれませんが、韓国では“初めての海外”が、安心院だという人が結構いますよ」。
流暢な日本語でそう話すのは、訪日旅行を専門に扱う韓国のランドオペレーター、All Japan Land社の林哲準氏。日本を代表する名湯、名峰を数多く有し、観光資源に事欠かない九州にあって、“一部”の韓国人の間では、安心院の人気が非常に高いと言います。 「今回のような視察や研修でこれまで10回以上、韓国のお客様を安心院に案内しました。見所の多い九州ですから、安心院以外にも温泉地や名所を訪れたり、旅館に泊まったりすることも多いのですが、帰国後に何が一番良かったかを尋ねると、皆一様に『安心院』だと言うんですよ」
実はこうした視察や研修、参加者の大半は一般の観光客ではなく、韓国の農家や農業関連団体の人々で占められています。
「都市部の住民と違って、韓国の農村地域にはまだ海外旅行に行ったことのない人も多くいます。そんな農家の方々にとって、初めて訪れる海外が安心院ということも少なくないんです」
そんな彼らが、時に初めての海外旅行の旅先にまで安心院を選ぶ理由。それは、同地で推進されている“グリーンツーリズムの視察・研修”です。
<視察・研修も親戚づきあいの第一歩>
そもそも日本国内では旅先としてそれほど知られていない安心院ですが、農業体験や教育旅行の世界では、知らない人はいない超メジャースポット。特に都市住民が農村に滞在して農村・農業体験をするグリーンツーリズムの分野では、一般の農家に旅行者が宿泊する「農家民泊」にいち早く取り組むなど、先進地として知られています。
同地のグリーンツーリズムの窓口になっているNPO法人安心院町グリーンツーリズム研究会によれば、年間の受け入れ実績はおよそ7,000人。過半数の約4,000人が修学旅行等で同地を訪れる中学生や高校生ですが、実はこの修学旅行に次いで多いのが、年間およそ2,000人に及ぶ韓国からの視察や研修です。
安心院が韓国からの視察・研修を受け入れるようになったきっかけは今からおよそ10年前。日本の研究者と官僚が韓国の研究者を連れて同地を訪れたことだったと同研究会会長の宮田静一氏は話します。
「最初は日本の方と一緒に韓国から大学の先生方が数人来たんですが、その中の1人がしばらくして韓国の官僚の方を数人連れてまた来てくれたんです。そうしたら、今度はその官僚の方がまた別の方を連れて来てくださってね。当初は、国の関係者が多かったんですが、徐々に道や群、市の関係者も増えていきました。韓国国内で中央から地方へ、関係者の間で安心院の話を口コミで広げていただいているようなんです」
これほどの評判を呼ぶ同地のグリーンツーリズムの研修ですが、受け入れにあたって特別なプログラムがある訳ではありません。むしろ視察や研修の典型でもある施設見学や関係者のレクチャーは最小限に抑えられています。
「ただ見て、話を聞くだけでは安心院まで来ていただく意味がない。画一的でプログラム化された内容ではなく、しっかりと安心院式グリーンツーリズムを体験して、感動して欲しいんです。ですから我々受け入れる方からすれば、修学旅行も研修も、日本人も韓国人も、高校生もお役所の方も、皆同じ。精一杯のおもてなしをするだけです。勿論、研修に参加した方が今度は個人で来てくれたらこんなに嬉しいことはありませんけどね」
宮田氏は笑顔を交えながらそう語ります。
「安心院式グリーンツーリズムのコンセプトは『1回泊まれば遠い親戚、10回泊まれば本当の親戚』。私たちにとっては研修も親戚づきあいのはじまりなんです」 All Japan Land社の林氏は、こうした安心院の受け入れの姿勢こそ同地が韓国人に支持される理由だと説明します。
「安心院は、何回来ても、我々ランドオペレーターや通訳、ガイド自身が感動しますし、何よりも参加者が満足しているのを目の当たりにするので、必ずお勧めするんです」
ともすれば形式的な受け入れになりがちな視察や研修を、一般の旅行者や修学旅行の子供たちと同じようにもてなす安心院式グリーンツーリズム。数人の研究者から始まった韓国人の受け入れが、10年間で年間2,000人にまで拡大した、その「口コミ力」の源泉は、こういったところにあるのかもしれません。
<言葉は通じなくとも・・>
心の交流を第一に考える安心院式グリーンツーリズムでは、各家庭が受け入れる旅行者は一日一組限定。団体客の場合は数人ずつが複数の農家に分宿し、農作業や調理などの体験の内容や食事のメニューも各家庭でそれぞれ異なります。事前に決められたプログラムをこなすのではなく、一軒一軒が手作りでありながらも、精一杯のおもてなしでお客様を迎えるのです。
とはいえ、韓国からの研修参加者の多くは地方出身者。海外旅行に不慣れな人も多く、殆どの方は韓国語以外話せません。言葉も通じない中、彼らが各家庭でどのように過ごしているのか、非常に気になるところです。
ところが各家庭を覗くと、そこには研修参加者と受け入れ家庭のお母さん、お父さんが、それぞれ韓国語と日本語で「談笑」する姿が。話のテーマは、農業から社会問題、それぞれの家族や身の上話まで様々。通訳もいなければ、辞書もない、そんな中でも会話が途切れることはありません。
「受け入れ農家の中には韓国語を勉強している人もいますが、私はさっぱりダメ。それでもお互い農家ですし、外国といっても同じアジアですから、言葉が通じなくても何となく話は通じるんですよ」
受け入れ農家のあるお母さんはこう話します。
夕食時には、テーブルに安心院の郷土料理と研修参加者が地元から持参した特産品が並び、食を通じた国際交流が始まります。安心院ワインの瓶が数分で空くと、「韓国の方は焼酎が好きだと聞いたから」と受け入れ家庭のお父さんが日本の焼酎を振る舞う場面も。お母さんが「先週泊まっていった韓国人の方が置いていったから」と韓国のりを出し、「それでは韓国の本場のキムチを味わってください」と参加者が自家製のキムチを出す、そんなやりとりが続き、話にも花が咲きます。
「グリーンツーリズムをやっていなかったら、農家をやっていて外国の方と話すことなんて無いでしょう。自分たちが知らない国のことを聞いて、その国の食べ物を一緒に食べる。こんなに楽しいことはないですよ」
これまで受け入れた外国人の「親戚」が書き残していった名前や住所、記念に撮った写真を集めたノートを見せながら、お母さんは楽しそうにそう語ってくれました。
深夜、研修参加者の一人が、片言の英語と漢字でこう話してくれました。
「本当に、本当に感動しました。外国人の私たちをここまで温かく迎えてくれて、お母さんやお父さんに何か恩返しがしたいとそう思いました。私たちも韓国で安心院のような温かいグリーンツーリズムを実践したいですが、そのためには勉強しなければならないことが沢山ありそうです」
翌日早朝、各受け入れ農家に見送られて彼らは帰国の途につきましたが、別れの際には涙する参加者が続出。たった1泊2日の体験ですが、そこには確かに心の交流があったのです。
<原点を忘れない>
グリーンツーリズムというコンテンツと韓国からの視察や研修というターゲット、そのどちらをとっても、安心院のインバウンド推進の取り組みは、一見、特殊な事例に映るかもしれません。また、そもそも各家庭での受け入れの様子を見ていると、同地には「インバウンド推進」という言葉すら、あまり当てはまらない、そんな気すらしてきます。
「安心院のグリーンツーリズムは農業を守るためのものなんです。農業を守る、農地を守る、景色を守る。それが安心院のグリーンツーリズムの原点です」 宮田氏はそう語ります。
「ですから特にプロモーションをしている訳ではありません。一人でも安心院の親戚を増やしたい。一度来ていただいた方にまた来ていただきたい。それだけなんです」 誰が来ても変わらない、自分たちの原点を忘れない。それが安心院の感動を生んでいるのかもしれません。
現状では外国人旅行者の大部分が韓国からの研修で占められている安心院ですが、ここ数年は韓国以外からの旅行者も訪れるようになりつつあります。
「つい先日は、オランダ人の旅行者の方が京都からNPOに直接問い合わせをくださいましたし、香港の家族連れが『安心院で農家民泊がしたい』と大分県庁に電話されてきたこともありました。最近は中国からの修学旅行の受け入れも増えてきましたよ」
安心院町グリーンツーリズム研究会の担当者は話します。
「1回泊まれば遠い親戚、10回泊まれば本当の親戚」。インバウンドの推進が全国的に広がる中で、プロモーションや受け入れ環境の整備など、とかく政策論や方法論ばかりに注目が集まりがちですが、安心院のように自らの原点を忘れない姿勢こそ、実はインバウンド推進の近道なのかもしれません。
(守屋邦彦、石黒侑介 2011.10.20 UP)
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発注者 | 公益財団法人日本交通公社 |
実施年度 | 2011/10/20 |