② 国立公園から臨む震災復興
〜環境省グリーン復興プロジェクトの10年〜
国立公園の機能
国立公園は自然公園法に基づいて指定され、その法律の第1条には、「優れた自然の風景地を保護するとともに、その利用の増進を図り、もって国民の保健、休養及び教化に資することを目的とする」と書かれている。「資することを目的とする」と言っているあたり、国立公園の仕組みだけで事を成すより、さまざまな取組とタッグを組んで効果を発揮する制度と推察される。国民みなさまにゆっくり休んで健康になってもらったり、自然の成り立ちを発見・学習したり、頭と心をリフレッシュして閃きを鋭くしたり、人生を充実させることをお手伝いする。それは美しく保護された(場合によっては管理された)風景「地」でこそ実現できることだ、と国立公園は主張している。
風景の保護ではなく、風景「地」の保護。「エリア」の保護だということは、制度の重要な観点である。これまでの日本の国立公園は、風景を鑑賞することを主目的とする管理がなされ、国立公園が面的に広がっていることの実を十分に活用していないという課題がある。写真で見る国立公園はいつも風景であるが、国立公園が提供しているものは空間である。その場に身を置かないと、空間の素晴らしさは理解できないから、国立公園がどれだけ素敵なのかは、実は写真ではわからない。国立公園は、他者の関与に埋め尽くされた管理空間ではなく、思い思い遊ぶための自由な空間である。「(決して勝手ではなく)ルールに基づいた自由」の下に行動することで、時間と空間を使い、環境と自己認識を総体化させる作用をもたらす。例えるなら修験者修行の入門あたりで遊ぶというイメージだろうか。風景地を保護するための規制や取組は極めて重要であると同時に、利活用に関する発想とそれに基づく取組は、空間的な認識に基づき、多様で、多面的で、かつ柔軟であるべきだ。
震災復興のための国立公園の指定
当時の厚生省国立公園部は、昭和30年に岩手県普代村から釜石市までの太平洋沿岸部を「陸中海岸国立公園」に指定した。当地に4年間駐在した私のこの国立公園に対する印象は、海にせり出した「崖だらけ」の国立公園というものだ。崖地が多いため、その場所自体の利用可能性は限られ、展望台などから眺望して、美しいと感嘆する。展望台から眺望できない場所もたくさんあり、海に出帆することで初めて地形の壮大さを実感することができる。津波の被害を受けたエリアは、陸中海岸国立公園の範囲よりもさらにはるか長大であった。日本で最も古い地質帯の一つである北上山地と太平洋のコンタクトラインに崖地やリアスの地形が続く海岸線が「三陸海岸」であるとの地理地形学的な考え方に基づき「陸中海岸国立公園」から南北の沿岸域に範囲を延伸する形で「三陸復興国立公園」を指定した。その国立公園を足掛かりに復興事業に臨もうとする「環境省グリーン復興プロジェクト」が開始される。
国立公園から震災復興に臨む
三陸地域にたどり着くための関東からの主要な交通手段は、八戸、盛岡、仙台の新幹線駅を基点とし、半分くらいの三陸の町は、そこからさらに2時間近い車両でのアクセスを経てようやく至る。道路事情の改善が進んでいる現在でも岩手県太平洋岸には東京駅から5時間以上かかる。そのようなロケーションの地域が、震災により社会インフラがズタズタになり、生活の場が奪われ、被災したコミュニティ(集落)の一部は離散を余儀なくされた。
震災復興という命題に対峙した時、規制により自然を保護することを軸とする国立公園に一体何ができるのだろうか、と私は思った。観光インフラの一部を自然公園法に基づく公共事業により復旧させることは可能であるが、観光施設の復旧が、大ダメージを受けている地域産業の復活と連動しなければ復興にならない。コミュニティの再生を支援するなど、国立公園の取り組みとして行った前例を聞いたことがない。ほとんどの行政機関にとって東日本大震災の復興事業は「前例がない」取り組みの連続であったと思う。
私の震災復興はじまり
東日本大震災が発生した時間、私は長崎県五島列島、福江島の美しい砂浜に居た。西海国立公園の管理をする離島の事務所に一人で勤務しており、巨大地震が発生したことも知らず、東シナ海に向けて角度を落とす途中のまだ明るい西日を見ていた。午後5時頃、事務所のある福江港に戻ると潮位変動があり、午後5時半頃に40㎝の津波が到達したと記憶している。波止場の高さに至るすんでのところで海は下がっていった。3日後の3月14日、私の人生その後10年を決める人物と出会う。加藤則芳という作家である。環境省自然環境局が担う「国立公園」に関する取材を行い、本を書いている人であった。「世界の国立公園制度の開祖」であるジョン・ミューア(アメリカ1838〜1914)の研究者でもある。
氏は、私の上司である神田修二の依頼で、これまた環境省の施策である「九州自然歩道」の再生と、その五島列島への延伸に関し、私を指導すべく横浜から五島列島に来ていた。氏は少し前にALSという病を発症していた。筋肉が委縮し、歩けなくなり、喋れなくなり、最後は呼吸ができなくなる、治療法が確立されていない難病である。氏は覚束ない足取りで杖を突きながら五島列島の島々を巡った。九州自然歩道の延伸が計画されている箇所を説明すると、氏は遠い目をしながら、あそこをずーっと島の北端までいくトレイル(歩く道)ができたらいいと言った。五島の島には最果ての趣があり、それが醸し出す雰囲気が歩く旅の魅力を高めてく
れる、と。氏の視線が指し示す先が何なのか、その時の私には見えなかった。氏は、五島列島の島民向けに、長距離自然歩道=ロングトレイルとはどんなものか、という講演を行った。氏が半年間かけて歩いたアパラチアントレイル3500kmの紹介が印象的であった。講演後の夜に氏は私に言った。「長距離自然歩道は、地元の人々が関わってこそ存在しうるもの。地元に根差したものであるべきだ。」氏が言った言葉の意味を、私は理解どころか心に留めることもできないまま、その翌日にお別れした。私はこの時、ALSを患った人がどのように衰えるのか知らなかった。氏が活動できる時間がどのくらい残されているのか、氏の覚悟がいかほどのものか、その時はついぞ知ることがなかった。氏との出会いの数日後、私は五島列島から東京への転勤を言い渡された。
東京に赴任すると、環境省自然環境局内には既に「震災復興のロングトレイル」の芽が生まれていた。私が引越の荷物をまとめている間に、氏は五島列島から戻ってほぼ日を置かずに環境省を訪れ、自らの構想を自然環境局に提案していた。2011.5.18には、環境省から三陸復興国立公園(仮称)と三陸海岸トレイル(仮称)を進めることが発表された。私が氏と出会ってから、2か月あまりの間に「震災復興の国立公園とロングトレイル」は動き出したのである。人生の終わりを意識していた加藤氏の尋常ならざる情熱と、震災復興という日本社会のその後数十年にわたる命題が奇跡的なタイミングで結びついた。
地域制国立公園をつらぬく「みちのく潮風トレイル」
日本の国立公園は「地域制」という制度の下、国土の5.8%を占める面積に展開していて、国立公園の中にたくさん人が住み、生活している。一方の「営造物」という制度の、例えばアメリカの国立公園は、国や州が土地を所有していて、一般の人は住んでいたとしてもわずかであり、人口密度は極めて低い。旅において地域住民と接する機会があるかどうかは、出会う、出会わないのどちらも意味があることだが、とても大きな違いでもある。
震災復興のロングトレイル「みちのく潮風トレイル」は、日本の中で南北に最も長い国立公園を歩いて旅するという提案である。欧米のウィルダネス(手つかずの原生的な自然環境)を行くロングトレイルと異なり、荒ぶる自然と人の住まう空間の狭間を旅するロングトレイルである。潮風トレイルの多くの部分が、人が生活に使っているか、かつて使っていた道を地域住民と共に復活させて繋げた道である。道をつくったのは今昔の住民であり、道を歩いて出会うのは今を生きている住民とその方々の生活場面である。震災もそこからの復興の過程も、今を生きる地域の人々の生活の中にある。余所者が震災とは何だったかのかを知りたいのであれば、被災地を歩くことをお勧めする。被災地にとって重要なのは震災という出来事だけではない。2011.3.11に至るまでも生活であり、そこからの復興のみちのりも生活であり、その先を想像することも生活である。その生活の場が、復興国立公園でもある。みちのく潮風トレイルは、国立公園に指定されている国内第一級の景観地をめぐるだけでなく、そこに住まう人々が、強烈な自然の力と折り合いを付けつつ、先祖代々営みを続けてきた、人と自然との共生の地を巡るロングトレイルである。
震災復興の目指すもの
三陸の被災地は、関東圏以西からは遠いエリアであり、震災以前から高齢化・過疎が進み続けている。震災により人口減少に拍車がかかっていることは事実であり、被災し、土地の嵩上げを行った(町の復旧を一からやり直した)地域においては、震災前と比較し、人口4割減と言われている。新規定住人口≧流出人口を目指すが、日本のほとんどの地域で高齢化・過疎化が進んでおり、人口減少の構造的土台がある前提での目標設定と戦略を求められている。
現代は、流通する情報量の増大とともに、情報を持った個人が独自に判断・選択する社会になっており、自身のニーズに対して条件の良いところを選択して人が住まうという考え方が少しずつ浸透してきている。地方が取り組む「交流人口の拡大」は、人口分散の効果を受け取るための足掛かりとなりうる。
交流人口拡大は三段階あると考える。一つ目は、余所から来られる方にその地を楽しんでもらう段階である。観光目的などで来訪し当地を楽しんでもらう、地域住民と交流するといったことを指す。二つ目は、募金やボランティアなどで地域活動に協力する段階である。多くの余所者はこの段階で地域コミュニティに触れる。三つ目は、当地に住むことを考えるほど、当地に魅力を感じ、地域(近所の人、仕事、住まいなど)を見て回り、深く知ろうとする段階である。ここまで交流の段階が進めば、定住につなげることにも実現性が出てくる。災害からの復旧・復興の作業では、二つ目の段階からスタートするケースが見られる。災害の応援に来てくれるボランティアが有難いのは、労働力として大事なのではなく、当地を応援してくれる気持ちがあり、さらにその先に交流を継続してくれる可能性があるから有難いのである。
交流人口の拡大は、経済活動やビジネスに結び付けて、経済効果云々と言われることが多いが、日本の高齢化・過疎化が進む地域にとっては、コミュニティの新陳代謝への好影響こそ期待したい。世の中は様変わりし、生まれた土地で生きて終える人がほとんどだった時代、労働者として大人になると都会へ出る人が多く存在するようになった昭和の時代、先祖代々の土着という要素が少なくなったからこそ自らが求める住みよい有利な土地へ自らの判断で移住していく現代へ。
国立公園はおおむね高齢化・過疎化が進む「日本の田舎」にある。直接的に定住人口を獲得するほどの経済循環を生み出していないが、交流人口拡大の初端でもある観光促進に対しては一部役割を担っている。また、国立公園は定住人口を生み出す上で重要な要素、具体的には「水」「空気」「朝と昼と夕と夜」「四季」「食材」「心洗われる景観」「社会制約の少ない時間の流れ」「限られた、けれどそれなりに深い近所づきあい」など、現代人が生きる場所として敢えて選択しうる環境条件を提示しており、それを欲する方々にとっては好物件地である。加えて、それら自然環境がもたらす効果が極力壊れないよう国が開発制限を課しているのであるから、国立公園はハイスペックで安全な「生きるに足る環境」を提供する有効な社会システムである。
震災復興11年目
2011.3.14-15と加藤氏と2日の時間を共有し、私とロングトレイルの関わりが始まった。氏が見ていた風景は、私にはいまだにわからないことも多いが、私は少しずつ、氏の後追いをすることで路傍の石の大切さに気づいていく道のりの途中にある。一方で、氏はあの日、我々が足掛け9年で1025kmの「みちのく潮風トレイル」を作り上げることを予想しなかったと思う。10年前に氏が言ったことが、発展の途上とはいえ、今、実現している。注がれたエネルギーの膨大さを思うと、ただただ感嘆するばかりである。
震災復興とは何であるのか。それは震災復興という命題の下、あまたの人々が意思をもって取り組んだ社会への貢献活動、ダメージを受けた地域を癒す活動の総合されたものであり、震災復興の先においては、地域を再生・活性させていく取り組みとして続いていくべきものである。その主役は、地域に住まう人々であり、地域を訪れる余所者でもある。三陸復興国立公園、みちのく潮風トレイルは、その方々が交わるための舞台装置であり続けてほしい。「地域から声が沸き上がるようなトレイルにしよう。」加藤氏の言葉が耳に響き続ける。みちのく潮風トレイルとの関わりが11年目を迎えたこの春、私は震災復興を振り返り感慨にふける心持ちにまだ到達していない。
櫻庭佑輔(さくらば・ゆうすけ)
1977年生まれ。環境省十和田八幡平国立公園管理事務所国立公園保護管理企画官。北海道函館市出身。高校・大学では山岳部に所属し、北アルプスなどの山々を踏破。「みちのく潮風トレイル」の構想が生まれた2011年当時は本省の国立公園課に在籍。「良いトレイルづくりのためには自分の足で調査することが不可欠」と、11年11月から13年3月にかけて、のべ47日間をかけて青森県八戸市蕪島から福島県相馬市松川浦までを歩く。13年4月からは東北地方環境事務所に勤務し、東北の地でトレイルづくりに奔走。2020年4月から現職。
※「みちのく潮風トレイル」の概要は、『観光文化243号』に掲載した、櫻庭氏の講演記録「第17回たびとしょcafe東北1000kmをつなぐ〝みちのく潮風トレイル〞」の記事参照。
https://xb069601.xbiz.jp/wp-content/uploads/2019/10/bunka243.pdf