わたしの1冊
第18回『アラブが見た十字軍』
アミン・マアルーフ/著
牟田口義郎・新川雅子/訳
(ちくま学芸文庫2001年。和訳初刊は1986年。原著は仏文1983年刊行。)
政策研究大学院大学教授・東京大学名誉教授
家田 仁
「井の中の蛙大海を知らず」と言うのは易しい。しかし、自分の価値観や考え方からひとまず離れ、別の視点からものごとを眺めてみるのは、誰にとっても決して簡単ではない。特に、自らを含めた多くの人々を包み込む、いわば「社会通念」とされるような価値観を敢えて相対視することは殊更難しい。宗教や性、そして歴史認識に関わる問題はその典型だ。
「歴史は勝者によって書かれる」といわれるとおり、歴史の文脈は、特定の時代と地域の中のマジョリティの価値観に準拠して創造される。しかし、異なった視点から過去を眺めてみると、歴史認識の視界が格段に広がる上、自らが無自覚のうちに浸るものの見方を俯瞰的にとらえ直すトレーニングにもなる。
11世紀末から200年間にわたる十字軍の歴史は、西欧の立場から「聖地奪還と巡礼者保護」の歴史として語られたものである。これが私たちの知る十字軍である。しかし、レバノン生まれでフランス在住のジャーナリスト・作家であるマアルーフの『アラブが見た十字軍』では、同じ200年間の時空間が全く異なる視点から展開される。圧倒的に文化・文明度の高いパレスチナのアラブ世界が、残虐非道な略奪行為を繰りひろげる狂信的で強欲・野蛮な西欧のキリスト教徒「フランク」によって侵略され、200年にわたってアラブが抵抗し、遂に撃退する歴史として語られる。
最近の米国トランプ政権による(火に油を注ぐような)「中東和平案」に言及するまでもなく、深刻な不安定下にある中東は、日本人にとっても最重要問題の一つである。その立体的な理解のためには、ステレオタイプな見方を越えて、異なる視点から解釈する俯瞰的姿勢が不可欠だ。本書は、そうした意味で現代社会に対しても多くの示唆を与えてくれる。
加えて二冊紹介しよう。一つは、歴史学者、杉山正明の『大モンゴルの世界〜陸と海の巨大帝国』(角川選書、1992年)である。わが国で14世紀の「元寇」の文脈の下に語られるモンゴル像は、ロシア・東欧において「タタールの軛(くびき)」として伝えられるモンゴル像と同様、勇猛果敢さと残虐性・非文化性に象徴される。しかし、本書は、モンゴル帝国が、先端文明技術をもつイスラム社会と深く共生し、また多民族・多宗教が共存する極めて高い寛容性をもった社会であったことを物語る。余談になるが、ユーラシア大陸の三分の二を占めるその版図は、中国が主唱する「一帯一路」を彷彿させるが、現代中国にモンゴル帝国のような「寛容さ」を期待できるかどうかは未知数だ。
もう一冊は、日韓両国でベストセラーの話題作、元ソウル国立大学教授の李栄薫(イヨンフン)らによる『反日種族主義〜日韓危機の根源』(文藝春秋2019年)だ。作られた社会通念に囚われがちな同胞に向け、事実を丹念に調査して書かれた力作だ。現代に生きるわれわれもまた、どんな偏った社会通念に囚われていないとも限らない。俯瞰的な自己認識を常に心がけることの重要性を痛感させてくれる一冊だ。
家田 仁(いえだ ひとし)
政策研究大学院大学 教授・東京大学 名誉教授。1955年 東京都生まれ。1978年 東京大学工学部土木工学科卒業、日本国有鉄道入社、1984年 東京大学助手、1986年 東京大学助教授、1995年 東京大学教授。2014年 政策研究大学院大学教授を兼務、2016年 同 専任となる。この間、西ドイツ航空宇宙研究所、フィリピン大学、中国清華大学に長期派遣。専門は、交通・都市・国土学。国土交通省・国土審議会、社会資本整備審議会、交通政策審議会など、政府・自治体の審議会や委員会などに参加。