連載
わたしの1冊・第14回
余の尊敬する人物
矢内原忠雄 著
岩波新書、1940年
公益財団法人 高速道路調査会 理事長 杉山武彦
10年以上も前のことだが、あるアンケートで愛読書を数点挙げることを求められた。私は4冊の本を列挙した。
そのうちの1冊がここに取り上げた矢内原忠雄の著作である。ちなみに、そのときの回答に含めたもう1冊に、デュマ原作・大久保和郎訳『モンテクリスト伯』(角川文庫)がある。私の海外の旅との関わりでは、小学校の頃から何度も繰り返して読んだこの本の影響力は絶大であり、もし観光や旅行に関しての〝わたしの一冊〞であったならば、ここでもそちらを選択していたであろう。
しかし、観光や旅行との関わりではなく、これまでの自分の人生や生活の全体との関わりで選ぶとなると、私としてはやはりここに掲げた『余の尊敬する人物』をとることになる。この本に出会ったのは、大学に入学した年であった。岩波新書であるから、大部な書物でもないし、むろん専門書でもない。著者が「今の世にも欲しい」と思う人物4人を取り上げ、「これらの人々のいかなる点を尊敬するのかを話してみたい」との気持ちから、当該人物とその思想のエッセンスを描き紹介したシンプルな書物である。
私はこれを書店で偶然に手にした。
著者がいかなる人物であるかもまったく知らないままに読み始めたが、「エレミヤ」から「日蓮」へと読み進むにつれて、その内容と文章の迫力に圧倒され、その叙述の格調の高さに陶酔した。
ほどなく、この著者が植民政策を専攻する学者であると同時に、著名な無教会主義のキリスト者であること、また岩波書店から著作の全集が刊行されていることなどを知った。古書店を探し回って全29巻の3分の2ほどを買い集めた。さらに、伝道誌『嘉信』や多くの新聞記事、周辺の人々による多様な回顧の資料などに目をとめる中で、内村鑑三から神を学び新渡戸稲造から人を学んだというその人物像が、私の頭の中に次第に形成されていった。
白状しておかなければならないが、夢中になって揃えた全集の各巻を、結果的にはほとんどきちんと読むことはなかった。聖書講義は難解に過ぎて歯が立たなかったし、正直なところ、かくも厳格な人物に真っ向から「付き合う」ことに次第に苦しさを感じてしまったことも事実であった。私にとって、この信念の学者はあまりに謹厳であり過ぎた。しかし、ある年配の知人が仕事上の用務で初めて私の研究室を訪れたとき、その知人が書架に並んだこの全集に気づくや、目を赤くして涙ぐんだ。それを見て私は驚愕した。直接に謦咳に接する関係にあったとのことであった。著者が教育者としての温かさ
をも備えていたことを推察させた事柄として思い出深い。
本書『余の尊敬する人物』は、この偉大な人格者が、その信仰の心と強い信念を最も平明に表した本であるように思う。私は読み返すたびに若い時期の自分の心持ちを懐かしく思い起こし、ときにはあらためて襟を正すことも少なくない。
杉山武彦(すぎやま・たけひこ)
公益財団法人 高速道路調査会理事長。 1944年東京都生まれ。 一橋大学名誉教授。成城大学名誉教授。 両大学在任時に交通論、海運論、ロジスティクス論等を担当し、現在まで、交通サービスの価格設定、社会資本整備の費用負担のあり方、ロジスティクスと物流産業組織の分析等を主たる研究対象として専攻。 日本交通学会、日本海運経済学会の理事および会長、また交通政策審議会委員等を歴任。 運輸政策研究機構運輸政策研究所長を経て、2016年より現職。