コラム
ロンドンとパリの古書店と旅行案内書
1913年版のJAPAN を探して
関西学院大学 文学部教授 荒山正彦
今回、ベルリンのHATとトーマスクックのアーカイブス訪問に同行したあと、ロンドンとパリで旅行関係の古書を探し歩きました。その見聞の一部をここに紹介したいと思います。
ロンドンにもパリにも、神田神保町のような規模の古書街はありませんが、古書店が集まるエリアはいくつかみられます。
また日本と同様に、古書店によって扱われている本の傾向には特徴があって、旅行関係の古書を多く扱う書店もみられます。
ロンドンでは、劇場やミュージアムなどの文化施設が集まるウエストエンドに多くの古書店があります。そのなかのひとつ、セシルコート通りにあるBryars & Bryars (ブライアーズ&ブライアーズ)には、世界各地の歴史的な地図と、旅行や探険に関する古書が数多く取り揃えられていました。もっとも有名な旅行案内書シリーズであるベデカーやマレーの旅行案内はもちろん、英語で brochure(ブローシャー)とよばれる紙の表紙の小冊子やリーフレット類も並べられています。旅行案内書の中の地図や挿絵のページだけが切り取られ、一枚ものとして売られることも珍しくないようです。
ロンドンで訪れた多くの古書店のなかで、もっとも旅行関係の古書が充実していたのは、ロンドン屈指の目抜き通りであるリージェント・ストリートから西へ少しはいったところにあるRare Books Shapero(レア・ブックス・シャペロ)でした。
ここには18世紀以降の旅行記をはじめ、19世紀から20世紀の旅行案内書、古地図、古写真などが豊富に揃えられています。旅行案内書の在庫数は圧巻で、ざっと数えたところおよそ300冊のベデカーとおよそ50冊のマレーが並べられていました。その中には、マレーの日本旅行案内や、鉄道院によって1910年代に編纂された An Ocial Guide to Eastern Asia をみつけることもできました。
シャペロでは、旅行案内書のみをまとめた古書目録も発行されています。この目録によれば、たとえばベデカーの旅行案内は概ね一冊50〜300ポンドですが、1839年のオランダ案内(初版)には6850ポンドの値段が付けられています(2019年3月現在1ポンドはおよそ150円)。つまり200ページあまりの旅行案内書の古書一冊に、およそ100万円の値段が付けられていることになります。19世紀の旅行案内書は現代のものとは異なり、その記述内容はとても学術的で、外国の地理を学ぶための教養書としても用いられていました。
地図や挿絵も、このページだけを切り抜いても商品価値があるほどに完成度の高いものです。
そうした歴史資料としての価値が、今日の古書価格に反映されているのだと思われます。
またロンドンでは毎月第二日曜日に、大英博物館近くのロイヤルナショナルホテル1階で、ブルームズベリー・ブックフェアという古書市が開催されています。ロンドン滞在中の3月10日がちょうど第二日曜日だったので、この古書市にもでかけました。広い会場にはさまざまな分野の古書が並べられ、旅行案内書などもみつけることができます。この日はあのシャペロも出展していました。店舗の古書店とこの古書市との大きな違い
は、価格(値付け)にあると感じました。文字通りの掘り出し物は古書市のほうにあるかもしれません。たとえばシャペロのブースでは、店舗価格の10分の1以下と思われる旅行案内書を何点もみつけることができました。
次にパリの古書店についてです。パリの古書店として一般によく知られているのは、セーヌ川沿いにおよそ1000軒ならぶBouquinistes(ブキニスト)とよばれる露天古書店かもしれません。今回、このブキニストのほんの片隅をまわってみました。17世紀から続くこの書店群には、観光客向けの古写真や古地図、古い絵葉書やポスターと共に、さまざまな種類の古書が並べられています。友人のフランス文学者によると、店舗の古
書店にないものがブキニストでみつかることもあるようです。
つまり露天だからといって品揃えが劣るわけでもなく、観光用のお土産店として無視することもできないということでした。
このブキニストにも、旅行案内書の古書はかなりありました。
ただしそれらは比較的新しい1960年代以降のものが多いように思いました。現在このブキニストは、ユネスコの無形文化遺産への登録が目指されているようです。
またパリでは、高等研究教育機関が集中するカルチェラタンと、ガラスのアーケードに覆われたパサージュに点在する古書店をまわりました。カルチェラタンの古書店は、友人に案内してもらったのですが、友人が20年以上前から利用してきた古書店の多くがすでに店を閉じており、日本の各地の古書店と同様に、店舗数が急速に減っていることがわかりました。
現在も営業が続けられている古書店をいくつかまわると、ここでも旅行関係の古書をみつけることができます。そこで目に付くのは、赤い表紙のドイツのベデカーやイギリスのマレーよりも、フランス・アシェット社による青い表紙のギド・ブルーでした。
カルチェラタンの古書店は、その場所柄、革装丁の立派な古書が多いことも特徴的です。いわゆる旅行案内書は、ドイツ、イギリス、フランスにおいて1830〜40年代に出版がはじまりますが、これらは布の表紙(クロース装丁)です。たとえば同じ時代のネルヴァルなどの旅行記は立派な革装丁の本で、旅行案内書よりもはるかに高価なものでした。
一方、クロース装丁の旅行案内書よりももっと手軽な紙の古書資料は、パサージュに点在する古書店で多く扱われていました。セーヌ川右岸にある旧証券取引所近くのパサージュ・ジェフロワやパサージュ・デュ・プランスなどには、古い時代の旅行ポスターや絵はがき、写真などが数多く売られています。特に絵はがきの量は圧巻で、フランス各地の地方ごとに束ねられ並べられていたり、外国の絵はがきは国別・地方別におそらく数万枚のオーダーでストックされています。
以上のように、ロンドンとパリの古書店と古書街を数日間かけてまわりましたが、そこには一冊の旅行案内書を探し出すという目的がありました。それは、ジャパン・ツーリスト・ビューローによって、創設翌年の1913(大正2)年に出版された英文の日本案内JAPAN です。
この1913年版のJAPAN は、ビューローが初めて出版した旅行案内書ですが、旅の図書館に所蔵されていないばかりか、管見の限りにおいて国内のどの図書館にも、どの資料室にもありません。今回訪問したHATとトーマス・クックのアーカイブスにもありませんでした。また国内・国外の古書市場もいろいろ探してみましたが、いまだにみつかっていません。
1913年にJAPAN が出版された事実は、ビューローの機関雑誌『ツーリスト』の会報欄などにも記されており、初版は1万部印刷されたこと、表紙は杉浦非水がデザインしたこと、そして「内外関係方面」に配布されたことが記録として残されています。JAPAN は英文で書かれており、実際に外国へ数多く配布されたと考えられることから、今回の渡欧機会を利用してロンドンとパリの古書店をまわりましたが、残念ながら出会いはありませんでした。
1913年版のJAPAN は、ビューローによる旅行案内書の原点であり、必ずみつけだしたいと願っています。ただ、これを叶える地道な探索の旅はまだしばらく続くこととなりました。
荒山正彦(あらやま・まさひこ)
関西学院大学文学部教授。大阪大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。専門は人文地理学、旅行の文化史。近代期の旅行案内書55点を復刻した企画『シリーズ明治・
大正の旅行 旅行案内書集成 全26巻』( ゆまに書房、2 0 1 3 〜2015年)や、ジャパン・ツーリスト・ビューローの雑誌『ツーリスト』の復刻(ゆまに書房、2017〜2018年)の監修と解説を行った。近著として『近代日本の旅行案内書図録』(創元社、2018年)。