活動報告
第18回「たびとしょCafe」
Guest speaker 竹沢 えり子(たけざわ・えりこ)
全銀座会・(一社)銀座通連合会・銀座街づくり会議事務局長。東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。
出版社勤務、企画会社経営を経て、1992年頃より銀座のまちづくりに関わる。
2011 年、東京工業大学大学院社会理工学研究科博士課程修了。 博士(工学)。
銀座のまちづくりをテーマとした博士論文にて日本都市計画学会論文奨励賞を受賞。
著書に『銀座にはなぜ超高層ビルがないのか』(平凡社新書、2013)、共著に『銀座 街の物語』(河出書房新社、2006)、
『地域と大学の共創まちづくり』(学芸出版社、2008)など。
「銀座のまちづくり~変わり続けるまちのルール〜」を開催
2019年10月8日(火)、「銀座のまちづくり〜変わり続けるまちのルール〜」をテーマに、第18回たびとしょCafeを開催しました。
銀座のまちづくりのルールは「決め切らないこと」が特徴です。決め切らないルールのもとで、「銀座らしさとは何か」という自問自答をたえず繰り返しながら、魅力的な街がつくられてきました。
今回は、銀座のまちづくりに長年関わっていらっしゃる竹沢氏をお招きし、銀座の歴史、まちづくり組織と活動、銀座らしさを作るコンセプトやルールなどをお話しいただきました。
後半の意見交換では、インバウンドをめぐる動き、銀座のなかでの合意形成のあり方、行政との関係、新規参入者との関係など、参加者の方から熱心な質問が多く寄せられました。
【第1部】話題提供
銀座の概要
●銀座は、かつては掘割、現在は高速道路に四方を囲まれているため、街の範囲が分かりやすい。碁盤の目のような銀座の街のベースは、江戸時代に徳川家康がつくった町人地にさかのぼる。
かつて銀座通りと昭和通りの間を流れていた三十間堀よりも有楽町側のエリアは、非常に間口の狭い江戸時代の町人地の町割がベースとなっている。一方、築地側のエリアはもともと武家地であったため、ひとつひとつの敷地が大きいのが特徴。
●銀座の人口は約3600人。なかでも、今春終了した中央区の人口増加政策で重点区域だった旧木挽町地区には多くのマンションがある。
●銀座の主な幹線道路は、銀座通り、晴海通り、昭和通り、西銀座通りの4つ。銀座通りは国道、晴海・昭和・西銀座の各通りは都道、この他の細かい道は区道であり、イベントや道の修繕などの際は、道ごとに異なる管轄行政と対応している。
●区道と区道の間には、自動車が通れない、人しか歩けないような狭い路地が毛細血管のように張り巡らされている。この路地も開発により少なくなっているが、今でも街の人たちの生活道路として使われている。
銀座の歴史
●江戸の町人地だった銀座は、明治5年の銀座大火を機に近代的な煉瓦街に生まれ変わった。新橋ステーションと築地の外国人居留地の間に位置した銀座には、駅前商店街という位置付けもあったのだろう。
●多くの外国人が集まったこの場所には、新しい街並みの中で一旗揚げようという気概を持った商人が全国から集まって来た。商人に続いて新聞社、文化人やジャーナリストたちも集まって来て、文化の情報発信基地にもなっていった。
●煉瓦街は非常に速いスピードで造られたため、建材として使われた煉瓦は湿気を含んだかなりの粗悪品だった。
煉瓦造の建物に和風の看板を掲げ、屋内では湿気のたまるところに畳を敷いて暮らしていたそうで、煉瓦街の様子は建築当初の姿からかなり変化したようだ。
●この煉瓦街は、1923(大正12)年の関東大震災で全て焼失してしまう。
近代化のプレゼンテーションのため、不燃都市を目指して明治政府が造った煉瓦街は、皮肉なことに地震により倒壊したのではなく火事により焼失してしまった。
●焼失後の銀座通りの発展は目覚ましく、昭和初期には松坂屋、三越、銀座松屋といった百貨店が誕生する。当時、これらの建物は現代の超高層ビルに匹敵するような非常に巨大なものであり、百貨店の出店に対して当初はかなりの反対があったようだが、結果的に百貨店も銀座の顔の一つとなった。
●昭和初期は銀座の文化が大衆化した時期である。百貨店の台頭により、陳列方式という現在では当たり前の販売方法が一般的になり、山の手地域からも人が来るようになった。銀座文化の代表であるカフェも、文化人が議論を戦わせていた大正期の姿に比して大衆化の度合いを強めた。モボ・モガが銀座の街を闊歩したのもこの頃。昭和初期の銀座には、非常に華やかで、ある意味退廃的とも言えるような文化が栄えていた。
●また、昭和初期には、銀座の地価がそれまで日本の中心地と目されてきた日本橋を抜き、自他共に認める日本一の繁華街になった。
●大いに賑わっていた銀座も、第二次世界大戦の空襲により再び焼失。和光、銀座三越、銀座松屋は連合軍に接収されPX(Post Exchange:米軍用の売店)となった。
●戦後に起こった最も象徴的な出来事は、1970年に始まった歩行者天国だろう。今年で50年目を迎え、一昨年度にはグッドデザイン賞のロングライフデザイン賞を受賞するほど、銀座に定着している。
銀座の組織と活動
●銀座には23もの「町会」がある。銀座という地名は、江戸時代に設けられた銀の鋳造所「銀座役所」に由来する。
江戸時代は新両替町という町名が正式で、銀座はその通称だった。明治になると銀座が正式名称となり次第にその範囲が拡大、有楽町側の西銀座、築地側の東銀座も銀座となった。町会の多さは、こうした街の拡大の歴史を反映している。
●町会の他、「通り会」という商店街組織、バーやクラブ、画廊、飲食店などの業界団体がある。「銀実会」は40歳までの若手経営者が参加している青年会的な組織で、銀座で開催される全てのイベントの警備や企画を担当している。まさかこの方が老舗の社長とは思えないような献身的な働きぶりをみせており、銀実会での活動が銀座の街に貢献することを学ぶ機会ともなっている。
●このほかにも各種委員会が組織されているが、基本的に全て街の人たちのボランティアで運営されている。
銀座らしさを作るキーコンセプト
●「銀座フィルター」とは、文書や決まり事ではない粋な不文律で、紳士協定として銀座で信じられているもの。
銀座らしくないものは目に見えないフィルターに掛かって自然に消滅すると銀座の人たちは信じており、銀座らしくないと思われていた店が閉店した時などに「銀座フィルターが効いたのだ」とされる。
●1984年策定の「銀座憲章」は、普遍的な内容ではあるが自分たちの活動の指針となっている。
●1999年には「銀座まちづくりヴィジョン」(図1)をまとめた。銀座は、馬車も車もなく人びとが歩いて暮らしていた江戸時代のサイズに基づいて街の骨格が作られているため、現在もヒューマンスケールに基づいたまちづくりを非常に大事にしており、歩いて楽しめる街にするため「銀ブラ」という言葉も大切にしている。銀座の歴史や生活などの象徴であり、銀座の街に奥行きをもたらす路地も重視している。
●「銀座まちづくりヴィジョン」の3つの柱のうち、私が最も大切だと考えているのは「社会文化的な価値が経済発展を支えるまち」という一文。経済利益を追求する商売人自らがこの考えを打ち出したことに私は非常に感激し、これこそが銀座の力だと強く感じた。
●ヴィジョン策定後、「銀座デザイン協議会」が発足し、銀座で新しい建物を建てる時や、広告看板を設置する際の指針として、2 0 0 7 年に「銀座デザインルール」を策定した。一般的なデザインルールにあるような色や大きさに関する細かな規定は、「銀座デザインルール」には一切ない。より細かな基準を示すべきではないかという意見もあったが、結局は銀座らしいかどうかだけで構わないという結論になり、銀座らしさの考え方や、銀座らしさを生み出している歴史的な根拠をまとめている。
銀座のルール
●銀座では道幅に応じて建物の高さ制限と容積率の緩和を決めている。歌舞伎座がある旧木挽町地区では文化に寄与する建物に限り例外を認めているが、それ以外の建物は例外なく屋上工作物含めて66メートルと定めている。
●このルールの検討の際、数値を決めただけでは不十分で、計画中の建築物が銀座らしいと言えるのかどうかを地元と施工主が議論・協議する場が必要だということになり、デザイン協議会制度が始まった。銀座で100平方メートル以上の個別建築や大規模開発、確認申請を伴う工作物の設置を行う場合には中央区の合意が必要となるが、その過程で地元デザイン協議会との協議とその結果報告が必須とされており、報告がない案件については中央区も許可しない仕組みとなっている。
●銀座デザイン協議会では、2007年の設立からこれまでに2509件の建物や広告物の協議を行ってきた。申請件数は毎年増加しており、現在では
年間約300件に対応している。実は、本当に申請が必要な案件は少なく、申請件数の多さは事業者側の協力の表れだと考えている。
●銀座では、この15年ほどの間に多くの建物が建て替わっている(図2)。2017年に完成したGINZA SIXは、当初は超高層ビルを計画していたが、「銀座街づくり会議」を設けて街の皆で議論した結果、銀座に超高層ビルは不要という結論を出した。現在では、非常に良い関係を築いている。
銀座モビリティデザイン
〜歩いて楽しい街・銀座をめざして〜
●銀座は地下鉄が発達し、周囲にJR新橋駅や有楽町駅があり、東京駅からも徒歩ですぐに行ける街だからこそ、もっと安心して歩ける街をつくりたい。
現在検討しているのは、路上駐輪の徹底禁止や歩行者天国の時間延長、臨海部と東京駅を結ぶBRTのような公共交通の誘致。意外と距離のある銀座の中を周遊する小型の交通機関の導入も、東京都にも提案している。
様々な活動
●銀座の街をパトロールする銀座ガイド、防犯カメラの設置、震災訓練や銀座通りの一斉清掃活動など、「全銀座会」では日々の地道な活動にも取り組んでいる。銀座街づくり会議では、様々な勉強会やシンポジウムを盛んに開催している。
●「GINZA OFFICIAL」は、銀座の街の公式ホームページ。前身の『GINZA Concierge』は1990年代に始まっており、街の公式ホームページとしてはかなり早い時期から活動している。
東急プラザ1階には、全銀座会が運営する観光案内所「G Info」も設けている。
銀座が銀座であり続けるために
●銀座には非常に個性的で優良な中小の専門店が連なっており、そこに、顔の見える関係に 基づいた過去・現在・未来へとつながる信頼があることが銀座らしさだと考えている。
●また、街に奥行きがあることも重要。
銀座は、銀座通りのハイブランド店やクラブや料亭街で数百万円使うことも簡単にできる一方で、路地に入れば2000円で気軽に飲める店もたくさんある。こうした層の厚さが銀座らしさであり、その象徴が路地。歴史的に積み重なった厚みであり、人工的にビルの中につくろうとしてできるものではない。
●銀座は、明治の大火、関東大震災、戦争、高度経済成長期を経て現在に至るまで、絶えず変化を繰り返してきた。
資生堂社長であった福原信三氏が関東大震災発生前に編集した『銀座』という本には、当時の銀座ファンの男性たちによる「自分の知る銀座はなくなってしまった」という嘆きが記されている。しかし、関東大震災後も戦後も、その度に建物もほぼ建て替わっているのにも関わらず、「やっぱり銀座はいい」「これが銀座らしさだ」と言ってくれるお客様がいる。一つ一つ丁寧にデザイン協議をし、全銀座会が集まって毎月の会合で話し合うという日々の積み重ねが、街の見た目は変わっていたとしても、100年後のお客様にも「やっぱり銀座はいいわね」と言ってもらうための基礎になると考えている。
【第2部】意見交換
参加者…近年増加している外国人観光客を、銀座ではどう捉えているか。
竹沢氏…商売の街である銀座にとって、買い物をしてくれるお客様は基本的にありがたい存在。一方で、外国人観光客の増加が日本人客の来訪を妨げるようではいけないと考えている。なかには、日本人客が別部屋で落ち着いて購入できるように工夫している店もある。
一時、中国団体客のマナーは本当に悪く、繁体字と簡体字のマナーブックや、〝喫煙禁止〞〝写真撮影禁止〞と書いたステッカーを大量に作成して配布した。
こうしたマナー違反は文化の違いに起因するものであり、かつての日本人がそうであったように、長い目で見守り理解を深めてもらう事が必要だと考えている。
つい10年ほど前までは、銀座は日本全国のお客様にとっての憧れの街を目指していたと思うが、それが世界に広がったということだと受け止めている。
参加者…もし銀座にまちづくり活動がなければ、銀座の街はどうなっていくと考えるか。
竹沢氏…銀座のまちづくりがなくなることはあり得ないだろう。今年創立100年を迎えた「銀座通連合会」では、設立直後の昭和初期から、景観や都市美、交通問題という、現在と同様のテーマで勉強会を開催している。銀座通連合会自体も、街路樹問題や市電の開通に伴う騒音問題がきっかけになり発足したもの。現在の銀座は、これまでに積み重ねてきた様々なまちづくりの結果としてある。
参加者…銀座の人たちをまちづくり活動に結びつけているものは何か。
竹沢氏…町会、通り会、業界団体、同窓会など、一人の方が様々な組織に複層的に関わっていることで、非常にきめ細やかな関係性ができており、これが実行力につながっている。また、銀座が大好きな方が高いモチベーションで活動していることも重要。
参加者…他の街と比較した場合の銀座の特徴は何か。
竹沢氏…銀座は、街の中で何でも揃ってしまうため、他の街を訪れる機会が非常に少なく、どうしても銀座中心のものの見方になってしまいがち。銀座は唯一無二の街でありたいというプライドゆえに、様々な角度から街を客観視できていないことは、銀座の欠点だと感じている。
参加者…老舗と新規参入者との関係はうまくいっているのか。
竹沢氏…煉瓦街に集まったのは全国の田舎の商人。さらに、関東大震災では約半分の店が入れ替わったと言われており、日本橋や京都に比べると銀座の人たちは新参者だという意識が強い。
そのため、銀座の街は新規参入者に対して寛容で、いったん仲間になれば新しい/古いは関係ない。銀座では『来る者は拒まず、去る者は追わず』とよく言われる。銀座通りにファストファッションの店が参入してきた当初も、一部で抵抗を示した方もいたが、全体として大きな抵抗はなかった。
参加者…居住者が減ったことによる影響はあるか。
竹沢氏…かつては、1階が店舗、2階が居住スペースという形態が一般的だったが、関東大震災の疎開をきっかけに、かなりの方が郊外に移り住んだ。
1960年代には、税制の影響から、店の法人化と同時に鉄筋コンクリートのビルに建て替えるケースが増加し、コンクリートビルの中で子育てをした
くないという理由で移り住んだ方もいる。銀座で生まれて育った世代としては、団塊の世代が最後になる。
夜の人口がなければ街は良くならないという発想もあり、街づくり会議では地区計画改正の一つの要素として住居についても議論している。
参加者…銀座の地価の高さについて、まちづくりの視点からはどのように捉えているか。
竹沢氏…銀座の地価が高すぎることは、商売上決して嬉しいことではない。地価が上がれば、大資本しか経営が成り立たない街になり、昔からお饅頭屋やそば屋を営んできた方は辞めざるを得なくなってしまう。私は街の価値が土地の値段だけで測られることはおかしいと考えており、地価を維持しようという努力はしていない。一方で、何かのバランスが崩れて地価が暴落し、銀座の商売が立ち行かなくなる事態は恐れている。
参加者…銀座フィルターという不文律は、新しい銀座文化をつくろうとするときにプラスに働くのかマイナスに働くのか。
竹沢氏…今のところプラスに働いているだろう。銀座フィルターは何かの抑制に働くというより、どちらかというと結果に対して、これは銀座フィルタ
ーが働いたという言い方で使われる。
大旦那が新しい動きに対してストップをかけるようなことがあるかというと、基本的に大旦那たちは若い者のやりたいようにすればよいというスタンス。
参加者…銀座はとても人間らしい街だと教えてもらった。終戦後ずいぶん経つなかで、これからの銀座のターニングポイントはどこにあると思うか。
竹沢氏…私は自分の職業を聞かれたときには、駅前商店街の事務局長だと答えている。銀座らしさのひとつとして、祖父と孫が手をつないで来ることができるような親しみやすさと安心感が挙げられるだろう。
1998年に地区計画が定められてから、この20年の間に耐震基準への適合などを理由に建て替えがかなり進んだ。震災や戦争のような劇的な変化はなかったが、100年後、200年後に振り返った時に、この時期は一つのターニングポイントとして捉えられるだろう。
参加者…多くの町会や通り会がある中で、合意形成を行うのは非常に難しいのではないか。有力者が個別に直接行政に掛け合うことはあるのか。
竹沢氏…会社の規模も扱っている商品も異なるため様々な考えの方がおり、その中での取りまとめは簡単ではない。
そのなかで、全銀座会という組織をつくり、意見を出せる大小の機会を設けたうえで、全銀座会は行政に対する銀座の意思決定機関だと宣言したことは大きな意味を持っている。意見を出せる場を設けることにより、みんなで決めたことは守らなければという意識が働き、まとまりのある活動につながっている。最終的には大旦那に意見を聞くが、大旦那同士の意見が合わず、どうしたらよいか分からなくなることもよくある。
皇室、政治家、芸能人など、著名なお客様を抱えている店も多いが、そうしたつながりで直接行政に働きかけるような方はいない。また、銀座には住人が少ないため議員がいないことが大きな特徴。最近はほとんど言われなくなったが、30年ぐらい前の大旦那たちは「おかみに頼るとは何事だ。おかみに金を出してもらうとはふざけるな」とよく言っていた。現在は必要に応じて補助金を得ているが、こうした精神は引き継がれており、銀座は今も〝商人の自治の街〞である。
参加者…規制など行政に対して課題を感じていることはあるか。
竹沢氏…1998年の地区計画策定時、中央区とはかなり意見を言い合った。そのおかげで現在では良好な信頼関係ができており、基本的に中央区は銀座の立場に立って考え、東京都に意見を伝えてくれている。
現在最も困っている問題は駐車場の附置義務。
ビルの共同化に伴い、一本裏の区道が駐車場の入口だらけになってしまうのではないかという懸念があり、駐車場の附置義務を見直してもらうよう要望している。
参加者…他の大都市のまちづくり活動と銀座を比較して、何か思うことはあるか。
竹沢氏…街の状況は様々であり、こうすれば良い街になるという一般解は絶対にあり得ない。他の街と銀座の違いを挙げるとすれば、銀座には街を牽引するディベロッパーがいないこと。銀座は予算も会費制で限られているため、全てのイベントを力を合わせて手作りでやるしかない状況がある。
おわりに
今回のたびとしょCafeは、学生時代から銀座のまちに大きな関心を寄せてきた、後藤主任研究員のリクエストを受けて企画したものです。企画の趣旨をご紹介します。
●変化のスピードが加速する中で、これまで常に変化に対応してきた銀座に、変化への向き合い方を考えるヒントがあると考えた。変化の中において街として最も大切なことは、〝街の意思〞や〝街らしさ〞ではないか。そうしたものを議論する場やプロセスが重要であり、銀座の取り組みに学びたいと考えた。
●最近〝稼ぐ観光〞〝稼ぐ観光地〞という言葉をよく耳にするが、それだけでは不十分と感じている。銀座は日本を代表する商業地であり、稼ぐが必然的に求められるにも関わらず、「社会文化的価値が経済発展を支えるまち」を街のビジョンとして揚げている。単純に稼ぐ観光を揚げる地域とは、考え方が異なると感じた。
●「この街で〇〇はしないでもらいたい」というマイナス要素の低減策に留まるのではなく、銀座らしさを考え、「この街で〇〇を楽しんでもらいたい」という価値創造の視点でまちづくりを進めている姿勢に関心を持った。
参加者の皆さまからは、「銀座は敷居が高いと感じていたが、お話を聞いて認識が変わった」「代表的な中心市街地が歴史的にまちづくりに取り組んできたことを再認識できた」「慣れ親しんでいる銀座の独特の空気感がどこから醸し出されているのか、一端かもしれないが知ることができた」といった感想をいただきました。
地道な取り組みを着実に積み重ね、大切なことを大切だと言い切る銀座のあり方は、全国の各地域にとっても大きな励みになるのではないでしょうか。
(文:観光文化情報センター 企画室副主任研究員 門脇茉海)