⑤…❷ 震災であらためて気づいた温泉地、旅館の可能性
いわき湯本温泉古滝屋の挑戦
いわき湯本温泉で、創業320年以上続く老舗温泉旅館 古滝屋、16代目当主の里見喜生氏に、東日本大震災を経験して変化した旅館のあり方、まちづくりの取り組み、原子力災害を伝え続けることの意味、有事にあって温泉地、旅館のなしえることなどについて伺った。
古滝屋、改革への決意と、まちづくりの取り組み
吉澤 いわき湯本温泉について、またご自身について簡単にご紹介いただけますか。
里見 いわき湯本温泉は「道後温泉」「有馬温泉」と並び、1300年以上も前から愛されてきました。現在も毎分5トンという、全国でも類を見ない豊富な湯量を誇っています。古くは湯治場として栄え、明治時代に石炭採掘が始まると、炭鉱労働者で湯本町も大いに賑わいました。しかし、湯治客には敬遠されるようになっていきました。1980年代に始まるバブル期には、「朝起きたらお金が貯まっていた」という時代であったと聞いています。
僕は、大学卒業後、住宅メーカーに勤め、その後、旅館業界に転職し、実家の「古滝屋」には1996年に戻りました。バブル後でしたが、当時、いわき湯本温泉には旅館が30軒くらいあり、旅行会社からの団体旅行の送客がある、そんな時代でした。
住宅メーカーでは、マーケティングをした上での営業が当たり前だと思っていたので、旅館を継いだ時はあまりにも他力本願な経営に驚きました。自分の力で立て直そう、改革しようと決意しました。
吉澤 里見さんは旅館の立て直しはもちろん、まちづくりにも取り組まれていくようになりますね。
里見 父親(故人・里見庫男)はいわき市を代表する郷土史家でもあったのですが、温泉街を活性化していきたいとの熱意を持って取り組んでいました。当時は、福島の観光と言えば会津でしたが、父親の発刊した本を読むと、「会津の時代は終わって、これからはいわきの時代だ」と書いていました。
当時、まちが疲弊しているのは僕も感じていたのですが、まだ古滝屋を改革していくことしか頭になかったのですね。ただ、5年経って経営が上向いてきたので、旅館と同じようにまちづくりをと思っていたのですが、難しかったですね。一軒一軒がそれぞれ考えで旅館や店づくりをしていますから、みんなでという雰囲気にはなりづらかったです。
吉澤 まちづくりの難しさを感じる中で邁進されてきた時の立場は、旅館組合の青年部でしたでしょうか。
里見 ちょうど青年部長の時です。青年部の中では色々と発言することはできましたが、旅館同士で何か事を起こすのは難しかったですね。そうした時に、旅館以外の町の人たちと話していて意気投合して、当時、温泉地活性化の手法として注目されていた「オンパク(※1)」を、2008年1月に行うことになりました。
震災で気づく、湯治場の原点
吉澤 そうした中で、2011年3月11日を迎え、里見さんは他地域に一次避難をされましたがすぐに戻り、古滝屋を全国から集まる救援物資の受け渡し拠点として開放しましたね。戻ると覚悟を決めたのは、なぜでしょうか。
里見 オンパクを通じて、知り合った多種多様な仲間たちが津波の被害にあったり、原子力災害で避難を余儀なくされたりという情報が五月雨的に入ってきて、旅館がどうこうより、まず仲間たちを助けたかったんです。僕は、他の旅館とは全く違う動き方をしていました。でも、そこから10年、古滝屋を訪ねてくれる人は絶えません。
吉澤 この10年、里見さんの中で何かの変わり目となった出来事はあるのでしょうか。
里見 福島は、地震、津波、原子力災害、風評災害の複合災害に遭いました。そして原子力災害は現在進行形です。震災を機に、社会づくりというか、社会課題解決というか、地域の垣根なく困っている人を助けるとか、そうした課題に向き合うことになりました。その中で、震災後、家庭内でのDVが増えたとか、障害を持つ方が団体生活に馴染めず生きづらくなったとか、それらに自分はどう役に立てるのかを日々考えながら、2011年の夏頃まで避難所にずっと通っていたんです。
いわき市内の宿泊施設は避難者や工事関係者らを受け入れて満室状態でしたが、古滝屋では工事関係者を全く受け入れませんでした。ボランティアの方がいわきや相馬や仙台に行くのに、泊まるところがない。古滝屋はそういうボランティアの方のために宿を提供したんです。僕ができないことをやってもらっている、交通費も宿泊代も結構かかる、せめて宿泊だけでも支援できればと。
吉澤 よくそのような想いに至りましたね。
里見 ずっと避難所通いをしていて、夜、真っ暗な旅館を見てはどうしようかと悩みました。先祖や2009年に亡くなった父親ならどうしたか、段々と300年以上続く古滝屋の歴史を意識するように。創業以来、古滝屋は戊辰戦争や温泉の枯渇、二度の対戦と、幾度となく廃業の危機にさらされてきた。でも、今回、震災はあったけれど脈々と温泉は湧き出ている、これは旅館を続けろということなんだと思いましたね。
布団と枕と温泉があれば、それを必要な人に提供してあげればいい。温泉宿の原点というか、お金は二の次ということで、まず自分のやれることをという感じでした。
吉澤 震災で旅館をやめるという選択肢もあったかと思いますが、旅館を継続していくことで、先ほどおっしゃった社会づくり、社会的課題の解決に役割を果たすことができると。
里見 ボランティアの方が「温泉が気持ちいい」、「また明日頑張れる」と。それまでは語弊はありますが、たくさんのお客様をさばくような感覚でしたから、そうした声は聞いたことがなかったんです。
震災でつらい思いをしている人たちの心も癒やせる旅館にしなくてはなりません。いわき湯本温泉本来の心と身体の疲れを癒やす「湯治場」としての原点が見えてきた気がしました。
旅館は2012年7月に、1年4カ月ぶりに営業を再開。震災を経営のスリム化の好機と捉え、身の丈にあった経営を目指しています。多様な人たちが集い、地域に根ざした『宿泊サロン』として、古滝屋を建て直していきたいですね。
今、自分では「朝のゆんたく」と呼んでいますが、泊まっている知り合いなどと、ラウンジでコーヒーを飲みながら、それぞれの地域とか、取り組みとか、将来の夢の話とかをするのですが、そういう仕事はなかなかないですよね。大切な時間です。
原子力災害の実態を伝えたい
吉澤 温泉街の現状についてお伺いできますか。
里見 旅館は19軒になって、2軒は新しい経営者に変わっています。工事関係者の宿泊はなく、一般の観光客とビジネス関係者が泊まっていますね。
古滝屋はリピーター、あとは紹介が多いです。福島に行くなら里見さんの宿に行ってみたらと。利用者は多様で、一人旅でも保険のセールスとか、震災関連の調査だとか。
こういう旅館の使い方もあるんだなと思ったのは、震災での双葉郡の家を追われ、仮設住宅や災害復興住宅に住んでいる両親に里帰りで会うのに、家族が旅館に集まると。仮設住宅や災害復興住宅は6畳1間と狭いですから。原子力災害で家を失った方たちの落ち合う場所という独特の利用の仕方です。
吉澤 皆さん、旅館があってよかったと思ったでしょうね。
里見 震災の時はロビーを救援物資の受け渡し拠点として、DVからの避難場所として使われることもありました。様々な社会的課題の解決にも役立つ、旅館の利用方法はあるんだなと思いました。
吉澤 古滝屋は、市民と避難者の交流の場、お互いを理解する場ともなっていますね。
里見 震災前、オンパクのプログラムで仲良くなった住職が、震災後、学校を失った子供たちのために寺子屋を開くなど活動がブレない。本来、寺っていろんな人のセーフティネットなんだ、古滝屋もそうありたいと思ったんです。
吉澤 今回の「観光文化」では、観光が地域の復興にどのような役割を果たしたのかについて考えたいと思っています。里見さんの話を伺って、「旅館は、社会づくり、社会的課題の解決のために、場を提供することができる」と感じました。そういう場も提供しながら、里見さん自身も、原子力災害の被災地をいわき市、双葉郡で学習する「Fスタディツアー(※2)」など、様々な取り組みをされていらっしゃいますね。
里見 2020年はコロナ禍で参加者が1/10くらいになりましたが、「Fスタディツアー」は震災後間もなく始めて、年間500〜800人くらいに参加いただいています(表1)。2019年などはリピーターが半分以上で、1度参加された方が3年後、5年後に、どうなっているかなとやってくる。家族に聞かせたい、友達に聞かせたいと参加してくださいます(表2)。また、ここ5年は、5割が大学生で、3月と9月の参加者が多いですね。
今、インフラなどはかなり整備されてきて、津波の被災地は、見た目にはよくなっています。でも、未だに家に戻れない、一次産業を中心に生業が成り立たない、未だに苦しい裁判を続けているなど、全然終わっていないこともあると、ガイドをする中ではお伝えしています。
吉澤 世間の関心が少しずつ薄れてきているのではなどと、お感じにはなりますか。
里見 感じますね。どんどん進んでいます。そうした中で、昨晩(3/3)のNHKクローズアップ現代「原発7キロの喫茶店〜福島・大熊町流転と再会の10年〜」などのクオリティの高いドキュメンタリー番組はありがたいですね。
吉澤 マスメディアが本質的なことを取り上げるのはもちろんですが、里見さんたちが日常的に伝え続ける、それが無関心をなくすことにつながるのではないかと。
里見 そうですね。特に原子力災害の場合は、福島の人が原発の電気を使って生活しているわけではないですから。特に首都圏の方には発電先はどこかとか、今のままエネルギーを使い続けていいのかとか、少しでも関心を持ってもらいたいですね。
吉澤 原子力災害を伝えるという意味では、3月12日に、古滝屋の館内に、原子力災害を住民目線で考える「原子力災害考証館 furusato」がオープンしますね。
里見 震災後、「原子力災害がなぜ起きてしまったのかを考える場所が必要だ。事実を伝えなければ未来に教訓を残せない」とずっと思ってきました。
富岡町には「東京電力廃炉資料館(東京電力)」がありますが、僕はより民間の視点で、住民の声なき声を拾い上げ心を伝えていきたいと。20畳くらいの宴会場に、震災後、住民が作成した情報誌や被災地の広報誌、新聞のバックナンバーなどを展示しようとしています。他の公的施設とは補完し合っていくことが大切だと思っています。
吉澤 ツアーや施設で原子力災害についいて学ぶことで、際限なく膨れ上がってきた欲望・欲求みたいなものを、見直すきっかけになればと。
里見 それが一番の願いです。逆にそれだけですよね。
観光業は卒業、未来づくり業へ
吉澤 本来は原子力災害から顔をそむけてはいけないはずですが、ツアーや施設を通して知ってもらうことが、風評被害を助長することもあるのかなと。その辺の怖さがあるからやめてくれと言う方はいませんでしたか。
里見 今はもうないですが、「Fスタディーツアー」を始めた当初は、匿名でメールや電話をいっぱいもらいました。「観光業の人間が何しているんだ」と思う人もいたのではないかと。でも僕は、「観光業は卒業した」と話していますから。
今、僕は「未来づくり業」に従事している、50年後、100年後の子供たちのために役に立ちたいと思っています。そうすれば何をしたって良いわけですから(笑)。
吉澤 いわき市は、行政よりも民間が主体的にまちづくりに取り組んでいる印象が強くあります。里見さんの記事を拝見していて、「じょうばん街工房21」という団体がありました。観光も包含しつつまちづくりを行う団体とういう位置づけでしょうか。
里見 未曾有の被害に、行政が迷走している感は否めません。「じょうばん街工房21」についてはその通りですが、町の伝統行事とかイベントの維持が基本的な活動だと思います。メンバーはブルーワーカーが多いので、パワフルで突破力があります。40代、50代が中心でしたが、震災後10年が経ち、メンバーもだいぶ若返りましたね。
吉澤 震災はないに越したことはありませんが、震災がきっかけとなったとすれば、まちづくりにおいてより連携が図られるようになったことでしょうか。
里見 僕は結果的にそうなりました。それと、町の皆さんは郷土愛がより強くなって、たとえそれぞれ思惑があっても、一致団結して向き合えるようになったという感じはしますね。
結局、人は人によって助けられるというか。僕の関わっている団体、子どもや障害者の教育・学習支援、まちづくりなどに取り組む「NPO法人ふよう土2100」も、農業再生とエネルギー転換、市民主体のまちづくりを目指す「いわきおてんとSUN企業組合」の取り組みも軌道に乗ってきました。
実は震災後、いろんなボランティア活動をやってこられたのは、オンパクメンバーのおかげなんです。そういう意味では、多種多様な方と関係を作っておくのがよいですよね。
有事に、温泉地、旅館のできること
吉澤 観光業は卒業し、未来づくり業へ。この10年でこれはやり遂げたなとか、今後はもっとこうしていきたいといったお考えをお聞かせください。
里見 こうした取材では初めて答えますが、やはり父親の存在が大きかったので、まずは、父親に「旅館をまだやってるよ」とは伝えたいですね。やめようと思った時もありましたから。
それから、この10年間、いわき市内外の仲間たちに助けられてきましたから、恩返しというか、有事の時、温泉地には果たせる役割がたくさんあるということを伝えていきたいですね。
吉澤 いわき市で震災により噴出した社会的課題に、温泉地、旅館がどう応えられるか、いち早くそれを経験した。その経験を伝えていきたいということですね。
里見 はい、旅館というのは、すごく誇りを持っていい生業だと思っています。一昨年(2019年)の台風19号では、いわき市も大きな被害を受けたのですが、湯本は大丈夫で、〝お風呂難民〞がたくさんいらっしゃいました。「あの時助かりました」と、今でも言われます。もし災害でどこかの町が消滅しても、温泉地は疎開先にもなるでしょう。
吉澤 確かに旅館は、人が住む環境が全部整っていますね。有事に、先ほどの話に戻りますが、布団と枕と温泉があればと。
里見 生活産業ですよね。ただそれだけに守り続けていくのは大変かもしれませんが、誇りを持って続けていきたい。
〝までい〞な暮らしとは何かを伝えたい
吉澤 最後に、他に思うところがあれば、お聞かせください。
里見 福島県の飯館村に「までい」という「丁寧な」を意味する方言があります。飯館村はずっと丁寧な暮らし、村づくりをしてきたのに、原子力災害で途絶えてしまった。発信したいことは、エネルギーの問題とか色々ありますが、それも含めて「丁寧な暮らし方」なんです。基本は自分の衣食住くらいは自分で作るというか、「身の丈に合った暮らし方」なんです。
世界から見ると、日本は恵まれています。でも、それが当たり前になっていて気がつかない。今回の原子力災害では、生産者と消費者がお互いを知らなすぎたが故に軋轢が生まれたり、生産地だけが大変な思いをしたり。自分も消費者の一人ですが、生産者・生産地、消費者・消費地がお互いを理解することが大切だと思います。
吉澤 今日は、本当にありがとうございました。
聞き手:吉澤清良
編集協力:井上理恵
古滝屋16代目当主
里見喜生(さとみ・よしお)
福島県いわき市出身・在住。3.11の自然災害・原子力災害で、運営する旅館が大きな被害を受けたが、再建。旅館は継続しながら、観光業から未来づくり業へ転身。障害児支援を行う「NPOふよう土2100」衣食住の持続可能社会を目指す「おてんとSUNプロジェクト」、原子力災害を考察するフィールドガイド「Fスタディツアー」に携わる。
※1:「オンパク」とは、2001年に大分県別府市で始まった「ハットウ・オンパク(別府八湯温泉泊覧会)」に端を発する、地域資源を活かした小規模な体験交流型のプログラムを一定の期間内に集中的にに提供するイベントのこと。いわき市では「いわきフラオンパク」の名称で実施された。
※2:Fスタディツアーの「F」の意味は、福島のF、双葉郡のF、ふるさとのF、future(未来)のF、fact (事実)のF。そして復興のFという意味が込められている。
http://f-studytour.com/index.html