はじめに
みなさんは、自分が生まれ育った場所のことをどのくらい知っていますか?遠い旅行先のことを熱心に調べることはあっても、意外と自分の地元のことは知らないかもしれません。今回は、“地域を知り、地域の記憶をつなぐ”ことについて、実際の取り組みを通じて感じたことを書いてみたいと思います。
長年の謎を解きに
岩手県北部のとある里山の集落は、かつて砂鉄によるたたら製鉄が盛んにおこなわれていた地域です。現在私は、この場所で地元の方と一緒に、魅力あるエコツアープログラムづくりに取り組んでいます。事業3年目を迎えた今年度は、町内の方向けのエコツアーイベントと、町外の方向け(盛岡や奥入瀬の方が参加)のモニターツアーを実施し、多くの方に楽しんでいただくことができました。
本番前には、そのつど、資源調査や練習会を何度も繰り返し行っています。ある日の練習会には、地元ガイドをしている方(地域の歴史や文化に詳しく、執筆活動等をされている方)などいつものメンバーに加え、その集落でうまれ育った方が初めて参加しました。その日は、いつものコースから足を延ばし、鉄を取り出した後に残る鉱滓を積み上げた山=金間部(かなまぶ)まで行ってみようということになりました。その方の実家はまさにその金間部の横にあったそうで、久しぶりの帰省(?)に喜んでいました。金間部までの道は、車一台がやっと通れるほどのとても狭いデコボコ道です。その道をガタガタと移動しながら、「こんな山奥に家があるから、通学がとても大変だったの。どうしてこんな山奥に家があったのかしらね。それに、うちの屋号は“豆腐屋”というのだけど、なんでこんな名前なのかなとずっと疑問に思っていて。」と話してくれました。この日は、この長年の謎が鮮やかに解き明かされる日となったのです。
金間部から分かる昔の暮らし
到着すると、台形に積み上がった丘が目に入ってきました。これが金間部で、近づいて上に積もった落ち葉をかき分けてみると、穴のあいた石がごろごろと出てきました。鉄が作られれば作られるほど、この山も高くなっていったそうです。地元ガイドによる謎ときが始まります。「この場所はかつてのたたら場の跡。製鉄従事者が多く集まっていて、集落ができていたんだ。豆腐屋という屋号はその名の通り、豆腐作りを家業としていたことを示している。豆腐屋の需要があるほど、このたたら場には多くの人が集まっていたことが、屋号から分かるんだ」「実家があったという場所は西向きの斜面になっていて、光は良く当たるけれど風は当たりにくくなっている。ここなら霜もおりないだろう。昔の人はちゃんと住みやすい場所を選んでいたんだね」
あの場に地元ガイドの方がいなかったら、謎は謎のままだったでしょう。資源調査から帰ってからの意見交換で、初参加の方が、「初めて知ったことばかりで楽しかった。今日体験したことを、地域の方にも話して教えたい!」と嬉しそうに話していたことが印象的でした。地域の記憶が次の世代へとつながった瞬間だと感じました。
記憶をつなぐために財団職員として果たすべき役割
私は、観光を通じて地域文化の面白さを伝えることができると考え、当財団への就職を決めました。その中でも、観光客に伝えることはもちろんですが、まずは、地元の方にその魅力を知ってもらうことが重要だと考えています。学芸員を志望していた頃は、まさにその伝える役割を自分が果たしたいと考えていました。しかし、実際に地域の中に入ってみて、その考え方は大きく変わりました。地域の人が知っていること=地域の奥深い魅力を地域内外の多くの方に味わってもらうために、こうした地元ガイドの方が活躍できる仕組みを一緒に作ることこそ、自分に課された役割なのだなと感じています。
自分の町のことはどうなんだろう・・?
仕事を通じてこんな経験を重ねるうち、「果たして、自分は地元のことをちゃんと知っているだろうか」、という疑問が生まれました。地域のことを地域の人に伝えていきたいと思い続けてきましたが、自分自身のこととしてはあまり考えてこなかったことに気づかされました。
ある日の懇親会の席で、先述の地元ガイドの方がこんな言葉を口にしました。「自分の土地の古老の話を聞きなさい。そうしなければ、地域の記憶はどんどん消えて行ってしまうのだから」。また、エコツアーイベントに参加した方からの、「年寄りが1人亡くなるのは、図書館がひとつなくなるのと同じなのよ」というコメントも深く心に刺さるものがありました。
様々な地域を訪れ、その土地ならではの奥深い魅力があることを知った今では、きっと自分の町にもそれがあるのだと思います。4月になったら、今は工場が立ち並ぶ海岸沿いに、かつての漁村のおもかげを探しに行き、祖母には曾祖父が漁具を作る鍛冶屋をしていた頃の話を聞こうと思っています。