要約
アートが人に与える高揚感と旅することで人が感じる気持ちの高まりとの間には通じ合う部分があるようだ。我々は旅を創造的な営みとして行うことができるのだろうか。
本文
子どもを見ていると、時々自分の中に眠っていたものに気付かされることがある。例えば、私の家には小さな子が3人いるが、真ん中の子はテレビでも何でもとにかく何か音楽がかかると直ぐに身体が動き出す。それを見て喜ぶのは一番下の子。子どもにとって一番面白いのはやはり同じ子どもの仕草なのだろう。バタバタと手足を動かして全身で喜びを表現する。一方、上の子は今、お絵かきとハサミが大好きだ。最後にはただの紙くずになってしまうのだが、そうやって手を動かしていることが嬉しいらしい。
こういう「何の意図もない」あそびの欲求と喜びとは、子どもの頃は、私自身の中にも溢れていたはずだと思う。それは子どもなら誰しも持っている自由なあそびの心。ただ、大人になった自分も、そういう気持ちをすっかりなくしてしまった訳ではない。心のどこかに眠っているのだろうと思う。
数年前に行った金沢21世紀美術館 http://www.kanazawa21.jp/ で感じた喜びは、そうした小さな子どもの頃のあそびの感覚と少なからずつながっていたものだったように思う。このミュージアムを実際に訪れた人の中には、それまでの美術館に対するイメージを打ち破られたという人が少なくないと思うが、私も間違いなくそのひとりだ。やや大げさにいえば、芸術に対する見方が変わった、というのに近いインパクトだったと思う。
もちろん「レアンドロのプール」や「タレルの部屋」など、このミュージアムの看板となる作品も面白かったが、私がとても気に入ったのは写真の作品だ。この時の特別展の出品作で常設展の作品ではなかったと記憶している。今思えば作家の名前くらいは控えておけば良かったと悔やまれる。意外なことにこの展示室では撮影が自由だった。それは多分、この作品の考え方に由来したものだったのではないかと思う。
写真の黒い円盤はかなり厚みのある金属製で、一枚の円盤ではなく、パンゲア大陸のように、いくつものプレートに分割されている。この作品は、見る(聴く)者が、ピンポン玉を円盤の上に落下させて、プレートごとに異なる音色を引き出して楽しむというアートだ。大きいプレートは低く長く響く音を奏で、小さいプレートはやや高音の短い響きを返す。ピンポン玉をどこへ転がすかで音色は様々に変化してくる。
金沢21世紀美術館にて(2005年12月) |
鑑賞者にこのような「働きかけ」を求める作品、というコンセプトに新鮮な驚きを覚えた私は、とても嬉しい気分になった。このような試みは現代アートでは決して珍しいものではないのだろうが、ガラスケース越しに鑑賞者を向こうへ押しやるような展示をあたりまえと思ってきた私にとって、アートに対してこのような親しみを感じたのは初めてだった。それと同時に心に伝わってきたことは、作者はきっと私が感じたような無邪気な喜びを企図してこの作品を作っただろうということだ。私は深い解放感を味わった。自分の感覚で感じ取ればいい。面白いと感じたものが面白い、つまらないと思うものはつまらない、分からないものは分からないのだから、そういう気持ちにさせられた。そして、こんな経験はどこでも味わえるものではない、これが金沢21世紀美術館の面白さ、わざわざ遠方からやってくる人がいる理由なのか、と思った。
それ以来、私には、心の中を行きつ戻りつする問いがひとつ生まれた。それは、金沢のミュージアムが人に与える喜び、アートが人に与えるこのような高揚感と、私たちが旅する時に感じる気持ちの高まりとの間には、何か本質的に同じ性質のものがあるのではないか、という疑問だ。
それは、例えば「人間性の回復」、と云ってしまえば、ただそれだけのことかもしれない。そう呼んでも確かに間違いではないだろう。だが私はここに、私たちが「人間性」と呼んでいるものの中身が隠されているように思う。それは多分、創造性ということに深く関わっており、ひょっとすると、それがヒューマニティの本性なのではないか、とも思えるのだ。
旅もアートも人のあそびの産物だ。その意味では両者に本質的な共通性があっても不思議ではない。しかしアートが創造性という面でより核心に迫る営みを続けている一方で、今日の旅は消費行動としての色合いの強い「旅行」という価値によってそれ自体のしがらみの中に囚われているような気がする。
よく「子どもはあそびの天才」だといわれる。我が家でも然り。子どもが次から次へと繰り出す新しいあそびに、大人はついていくのがやっとだ。しかも子どもは直ぐに飽きてしまう。何度も同じ手は通用しない。だから大人の方も固い頭と身体を必死に働かせて何とか新しいあそびを工夫しようとする。私が良く使う手は、まず子どものあそびを真似して、それを少しアレンジするというやり方だ。子どもの100%ピュアな創造性に比べれば明らかに「ズル」なのだが、それでもおもちゃを無理やりあてがうようなやり方に比べればマシではないかと思っている。
子どもの「何の意図もない」活動は、見ようによっては完全なるムダなのだが、同時にピュアな創造性に満ちている。それは誰かに教えられて出てくるようなものではなく、子どものなかに予め備わったものだ。そしてその高揚感と喜びとは子どもを発達させるエネルギーになっている。ほかならぬ私たち自身もその力を借りて大人へと成長してきたのだ。
果たして旅はどうだろうか。「かわいい子には旅をさせろ」ではないが、旅はもともと人間的な成長の機会があふれている。だがそれはたったひとつの条件、つまり、人の心の自由な活動を引き出す機会となること、少なくともそれを阻害するような要素をできるだけ減らすこと、が満たされた時、初めてその本領を発揮する。旅行商品というものは、どうしても、おもちゃをあてがうようなつくりになってしまいがちだが、今は、これまでの旅行の既成概念を捨てて、旅を一旦あそびの原点に返してやるようなトライアルが必要とされている時だと思う。そして金沢で私を驚かせた展示のように、参加する者が積極的に何かをしかけることで、そのあそびが完結するようなデザインで、旅の商品を考え直してみてはどうかと思う。